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1.納谷さんの師匠は
僕の師匠は、森剣治さんですね。まあ、実際に何もできない状況の僕を使ってくれて、本番っていうんでしょうかね、名古屋の駅前に「ラテンクオーター」って言う、まあ同伴系のお店があって、そんな中で、コルトレーンとかウエイン・ショーターとかお客には、分けわかんないような音楽ができてたいい時代に、実践で鍛えてくれた師匠っていうか、まあ、人生の師ですね。生き方とは、とか、男子たるものは、とかいろんなことを教えてくれたのは、森さん。あと、ギターの和田(直)さんも一緒にやらせてもらって、和田さんは、そんなになんか言うタイプの人じゃないんだけど、「俺の背中をみなよ」的な人ね。同じように、もう亡くなっちゃいましたけど、バイブの津野さんって方がいて、名前がよしひこって、僕と同じで、この人は、海軍、特攻隊の生き残りで、あと飛行機が二つ飛んだら自分の番だっていう時に終戦になっちゃった。・・・そういう方です。この3人が実質的には、僕の師匠かな。
それとあと安馬(あんま)徳治さんって方。その人は、その非常に、なんていうか、斬新なドラムをたたく方で、オーソドックスなドラムではなくて、そのポリリズム的にドラムがどんどん変わっていって、だから、僕らがしっかり一拍を取っていないと、どこが一拍かわからなくなる。で、本人もわからなくなるので…。(笑)でも発想とか音楽に対する考え方を非常に学んだ方ですね。森さんからは、ジャズのエンターティナー性全般を叩き込まれたって感じで、和田さんからは、人の伴奏はどうやってやるか、それとブルースフィールっていうかファンキーな感じがどんなものかっていることを身をもって体験させていただいた方。また、安馬さんからは、発想の面白さっていうかな、自分の信念をつらぬいてたっていうこと、今だったらとっくにクビになってるけど、まあ時代がよかってんでしょうね。
だから、4人ですね。


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2.尊敬するミュージシャンは
要するに、自分の信念を貫いて、それを自分の生涯貫き通した人たちは、すべて尊敬しますね。
たとえば、セロニアス・モンクなんかもそうだろうし、それとあと、自分の使命ってなんだったのか本当はわかってたかどうかわからないけど、チャーリー・パーカーとかね。でもやっぱり、名をなしたミュージシャンはみんなそういうところはあると思う。 そりゃあね、みんなたたけば、ひとつや二つほこりは出ますよ。でも、音楽に関しては妥協しなかったと、思うんだよね。で、基本的に黒人のミュージシャン。特に、白人からはずーっと差別を受けてたし、まず差別と戦ってたわけで、負けられないっていうかね、そういう意味で、黒人のミュージシャンで、名を成した人たちは尊敬に値するって思いますね。 ま、好きなミュージシャンってことだったら、セロニアス・モンクも好きだし、それから、ウイントン・ケリーなんかも好き。あと、ハービー・ハンコック。みんな好きだね。 プロのミュージシャンが、アマチュアの人みたいにあまり好き嫌いということは、ないんだよ。我々みんな、音楽でめし食ってるし、みんなそれぞれ苦労してやってきて、名を成した人たちだし、みんな好きで、尊敬してますよね。そういうところに値する人たちだと思います。


img033.jpgimg033.jpg3.納谷さんの歴史「合歓音楽院・人との出会い」
僕は、卒業でなくて、中退なんだけど、なんで、退学になっちゃったかっていうと、学生時代からすでにプロの中で演奏活動を始めてたのね。ひょんなことで知り合ったギターの大西さんって人が、俺のピアノを気に入ってくれて、学校が終わると当時は、一年間毎日8時間くらい練習してたから、腹が減るでしょう、彼のとこ行って飯たべさせてもらってたの。 で、その頃、「おむすびころりん」とか「四季のうた」の芹ようこさんのバックをやってみないかっていう話とか誘ってもらって、勉強だとおもって、参加させてもらってきた。そのとき、書き譜で「明日に架ける橋」があって、あれがもうぜんぜん弾けなくって、ほんとに、そればっかり練習してたっていう記憶がありますね。
あとは、まあ学校で練習がおわると大体残ってる奴が、4、5人いて、その中のベースのお父さんの家が代官山ってとこにあって、県庁の庁舎みたいな建物でコンクリートの壁が、すごく厚いから、音が漏れないの。そういうところで夜中じゅうセッションやるの。3日に一度はやってたね。それで、お腹すくと、勝手に冷蔵庫あけて、肉とか焼いて食ってたりして、お父さん気の毒だったね。そのセッションでみんなでいろんな曲持ちよったりして、まあ、何やったっていうより、青春セッションかな。その流れで、そのままうちの田舎の秋田で、夏休み中演奏させてもらったり。そういう時、終わってからステーキかなんか毎日食べさせてもらって、うれしかったなあ。普段は、一週間に一回は、ギターの大西さんが間借りしているとこにいって、ご飯食べさせてもらったり。そんなに売れてる人じゃなかったけど、そこそこ弾けて、今度こういうのやるからって練習したり、譜面をもらったりもしてた。
それから、ドラムの中村君は、東京の北区に住んでて、そこんちのご両親が新潟の出身で、シャケフレークを食わせてもらえるんだよ。シャケっていっても、切り身しかない時代なんだけど、そっちの田舎では、シャケフレークっていうのが、保存食みたいに当たり前にあったんだよ。それをご飯にかけて食べて、「まあー、なんておいしいんだろう」って、それではまったんだけど、最近の防腐剤入りのああいうものとは、違ってね、本当に身体にいい、ほんとに単純なフレーク。「お前こんなうまいもん食ってんの」みたいな…。いろんな友達んとこに食わせてもらいに行ったり…。だから、ずっと音楽づけっていうか、練習漬けだったね。それが、ぜんぜんね、なんかね、逆に練習しないと気持ちが悪いって言うか。
それで、18のとき思ったのが、音楽性っていうのは、どうせ後から付くから、もし俺が音楽性を持っていれば、大人になってからもっとどんどんいい音楽できるはずだから、とりあえず今は何すべきかって、思って、とにかくメカニックを鍛えようって。あの、若いうちにしか出来ないことなんだろうって。なので、毎日8時間、基本的な練習をずーっと一年間続けたわけですよ。例えば、ハノンを全調でやるとか、リズムを変えるとか、そんで、その中でピッとひらめいたのが、よく皆さんに言っている、三度、十度でずらすとか、それから、キーをずらして弾くとか、六度で弾くとかリズムを変えるとか、そうハノンの練習法をそこで見つけたの。やってる間に。それは、18、19ぐらいの時からずーっと変わらず今でもやってることだよね。それとか、左手が弱かったんで、「左手のツェルニー」みたいなのがあったり。そういうの。 だから、ほとんど学校の授業なんか出た覚えがないくらい、そりゃあ、その単位が足りないみたいにはなるわねえ。おまけに、学校に来ないで、プロと一緒にツアーとか出たりしてたらさ。お前、何しに来てんだってことになるわね。
仕送りは、親元からきてたんだけど、結局仕送りを絶たれてしまい、その頃時々一緒にやってたギターの岩田君が名古屋だっていうから…。 まあでも、その頃の彼女は東京にいるしね、ちょっと、名古屋って離れるのやだなって、思って。でも、新幹線だったら、2時間だよっていわれて、ああ、そうか2時間で、行けるのかって。でもね、お金のことを考えなかったっていうか、新幹線代がかかるわけでしょ。ま、今とあんまり料金は、変わらないけど、ね。いま、高速バスがお得ですけど。それで、名古屋に来たわけですよ。それが、名古屋の大須だった。で、その前に名古屋に来る機会で、ポプコンというのがあって、それの中部大会でシンセサイザーを弾く仕事があるけどやる?って、でもシンセなんか触ったことあんまりないし、って言ったら、いいんだよ、どうせ出番なんかあんまりないんだし、とにかくみんな適当にやってくれたらいいから、って。今みたいに、ボタンで押す奴じゃなくて、レバーで音を作っていくやつね。それで、行ったら、そこで初めて森さんと会った。森さんは、ポプコンオーケストラの指揮をやってた。森さんは、ヤマハの東山に関係があったのね。そこで、オケとかリハーサルとかやって、丁度休憩になったときにピアノが空いてたので、自分で弾いてたら、森さんがいつの間にか後ろにいて、君はピアノ弾くんだ、っていって、はい、何処で?、東京ですって言ってここに来ている事情を説明して、ふーん、って言って帰ってった。なんだ、あの人は?っていう感じだった。そうこうしているうちに名古屋に来ることになり、つまりね、東京にいても食えないから、なんとか自活しなきゃいけないから、名古屋でバンドやろうってことになって。いわたこうじとバンドやることになって。ちょうど、エルだよ、大須の。あそこを昼間貸してもらって、バンドの練習やってた。でも、ジャズではなくて、フュージョンっぽい、その頃フュージョン全盛ですから。そういう練習をしていたところに、後に親交を深めることになるドラムの川口君が、僕がいわたくんにもらった冷蔵庫を表できれいに洗ってたところに、いわた君の友達ということで、あらわれて、一緒に掃除してくれたわけ。いい奴だなって、思ってたら、「今、ピアノを探してる人がいるから、よかったらオーディションを受けないか?」って教えてくれた。
img036.jpgimg036.jpgそれで、いったら、昔「シャープアンドフラッツ」でベース弾いてた人が、バンマスで。そこで、川口君は、ドラムをたたいてたの。そこで、ピアノが辞めるってことで、オーディションを受けたら、受かって、そこに三ヶ月間籍を置くことになった。そこで、その当時の給料で、18万円もらって。手取りでですよ。エーって感じ。だって、家賃1万五千円くらいなのに。そのほかは、自由じゃん。これは、やめられないよねって、思って。そうこうして、そこで、3、4ヶ月やってたら、今度は、「ラテンクオーター」のピアノが辞めるってことで、森さんから電話がかかってきて、「よかったらうちでやらないか」って、一応オーディション受けて、お願いしますってことになって、「お前、いくらもらってる?」「18万です」、「じゃ、うちは19万5千円出す」っていってもらったけど、「いや、でもバンマスにはどういったらいいですか?」ってきいたら、「私から話をつけるから」って。まあ、話をつけてもらって、「森君は、非常に優秀なミュージシャンだから、いって一生懸命勉強して来い」とバンマスにいわれて、森さんのところに入ったのが、20、21歳くらいかなあ。それから、4年間そこで、勉強させてもらうことになって。まあ、場所は、同伴みたいなとこだったけど、いろんなジャンルんをやったね。突然フリージャズみたいなことをやりだしたり、森さんが、今回コルトレーン特集とか、ウエイン・ショーター特集とか、マイルス特集とか。じゃあ、お前マッコイな、とか。ハービーみたいに弾いてみろ、とか。で、名古屋でジャズを本格的にやってるとこがなくて、当時の若手ミュージシャンたちが、しょっちゅう遊びに来てたの。夏目さんとか、ピアノの太田さんとか、あのいろんな人たちと知り合うことになる。で、まだ学生だったりする人もいて、もちろん辞めちゃった人もいたり、東京行っちゃった人もいるけど。そこで、いろんなバンドのABCを教わることになるの。週末になると、二管とか三管になったりするの。トランペット、テナー、アルトとか、まあ、森さんは何でも持ち替え出来るんで。で、その合間にドラムの神田さん、そのときドラムが神田さんだったから、彼はアメリカから帰ってきたばっかりだった。弟さんが、トヨタ関連で、アメリカにいて。で、帰ってきて、神田さんがキャバレーでバイトしないかって。月に一回か2回お休みの日があるので、あの、「みかど」というキャバレーが伏見の辺りにあって、伏見のあたりって、昔は、キャバレーキングとかみかどとか、いろんなキャバレーがあって、そこに、基本ジャズをやるバンドがみんなはいってた。ラテンとかね。そこのバンドが、月に一回くらい、「神田君、トラやってくれないか」ってことになって、チェンジバンドのトラをやってたの。キャバレーって普通2バンドはいっていて、バンドが変わるときには、必ずワルツをやるの。タララララ~とか、ワルツをやりながら、途切れないように、交代するの。で、ストリップのお姉さんがいたり、いろんなショウがあったりするときは、休みで後ろでみてるわけ。キャバレーが華やかな時代でしたね。 だって噴水がステージに上がってたもん。舞台も動いて。石原裕次郎の時代の華やかな、終わりごろを味あわせてもらったね。ステージも高くて、チップを受け取るのも手を伸ばして・・。「ちょっとジルバやって」とか。ジルバって「ジタ―バック」の略なんだね。日本に入ってきて、ジターバックがジルバになっちゃった。ジターバックって、スイング時代に流行った踊りの種類。 で、ジターバックワルツってあるじゃない。あれは、ジターバックってことなのね。それが、日本に入ってきたら、短縮化されてジルバになっちゃった。最初、ジルバって何だろ、何だろって言ってたら、いいんだよ、とにかく4ビートでやればいいから、ってスイングやりゃあいいんだって。多少ステップは、違うんだけどあうんだよね、最終的に。本当は、6つで、ひとくくりみたいな。123456、123456。まあ、そんな感じで、名古屋に来て、森さんと知り合い、そうこうしているうち、ラテンクオーターがつぶれてしまうことになり、バンドを入れ替えるんで、僕らがクビになったんですよ。うん、もっと、音楽の内容を変えたいって言うことで。森さんは、自分で店を見つけて、君らは君らで、店を見つけろ、と。で、まあ、トリオでね、その頃ラブリーっていう店が栄に移転したところで、仕事ないかと思って、トリオで演奏しにいったのね。そしたら、明日から来てくれって、言われて、えーっ、いいの?みたいな感じ。それで、神田さんと、石橋君と僕とで、でたの。でもね、その前に、「スイングジャーナルのベストソロ」この賞をもらって、メジャーデビューしてたんで、「あなたが、納谷くんか」って感じ。 それで、名古屋で初めてプロのバンドが出現したわけ。これまでは、セミプロで、夏目さんはヤマハの社員で、太田さんは写真屋の息子、みんな仕事をもっていながら、ジャズも好きでやってたけど、僕らは、そういうものをもたずに、これ一本で、要するにプロのジャズバンド第一号、ライブハウスでね、やりだしたのは、僕らが第一号です。 ま、たまたま第一号だったわけです。たいていセミプロの人は、この辺に住んで、家業を継がなきゃいけない、とかそういう事情があったからだと思う。 東京は、みんな目指してきているから、そのつもりでいる。その当時のライブチャージが、300円だったんです。でも多いときには、2万7千円ぐらいあったよ、一人。どんだけ、人が入って、入れ替えしたかって感じ。昔の手帳見るとわかるんだけど、2万円を下ったことはないくらい。そんだけ、音楽を聴きながら飲めるお店がなかったから、客は、聴くんじゃなく、騒いでるわけ。だからどんだけ喧嘩したかね。そのたびに河合さんが間に入って止めて。ぜんぜんお客に音楽を聞く意識がないんだもん。 その意識改革をしていったのも我々でしたね。本当、第一号は大変でしたよ。 そのあと、だんだん娯楽が他にもできてきて、客も拡散していって、ラブリーにくる客もだんだん少なくなっていった。

DSC00614.JPGDSC00614.JPG4.納谷さんにとってジャズとは
ジャズって、あんまり、その考えたことってないんだよね。う~ん、何だろ、ただその、もう自分のライフワークみたいなもんで、これ無いとやってけないと思います、多分。
橋本:ちょっと歴史っぽくなってしまいますが、いろいろジャンルがある中でジャズを選んだのは?
僕はもともとエレクトーンをやってたのね。エレクトーンで「合歓音楽院」はいったんですよ。で、合歓で初めて僕は、中部地区っていうのを知って、「赤だし」っていうのをはじめて知ったんです。で、親父と入学式で合歓、志摩に来て、その宿泊施設に一晩泊まるわけですよ。それで、親父が「これでお前と別れるかと思うとほんとにさみしかったんだ。」って、後で言ってくれたんだけど、そのとき子供はもう夢いっぱいだったから、ああ、あの時親父はそんな思いだったんだなって、思いました。後で、ぼそって言ってたから。何年も経ってからね。それで、そのとき初めて出されたのが「赤だし」っていうもので、親父とこれは何なんだ?っていってたの。まず、いっぱい具がはいってるし、なんか、こっちの地域の煮物のなんか、お味噌のにおいがするから、味噌の煮物かなって、とても味噌汁ではない。 だから、秋田の味噌汁っ米麹なんで、色は白いし、お豆腐とかわかめとか、ぱらぱらって入ってるくらいじゃない。で、こっちのは、具だくさんなんだよね。だから、聞いたわけ「これって一体なんですか。どろーってしてて。」そしたら、「赤出汁っていう味噌汁ですよ。この辺はみんなこれですよ。」俺、すごいショックで、これをこれからずっと食べなきゃいけないのかって。まず、そういうショックの事件もありましたね。まあ、で、合歓に入ったときエレクトーンだったの。それで全寮制だったの。で、同室になったのが大阪からきたベースの村上君ってやつだったの。それがもう、ジャズがすごい好きで、もー、何かあるとジャズの話をするわけ。で、人のものは自分のものっていうタイプで、まあ、大阪の一番良くない例が横に来たと思えばいい。傍若無人、土足で人の・・しかもおんなじ部屋だし。勝手に俺のさあ、持ってきた鏡とか借りて、こうやってやってるわけ。一言も何にも言わずに、ぱって、持ってって。「おまえさあ、自分で鏡買えよ。」って言うと、「何、ケチくさいこと言うてんねん。貸してくれたってええやん。」「だったら、一言いえよ!」みたいな・・。礼儀知らないなあ、みたいな。もう、だから、大阪の最悪の奴が、まあ同じ部屋だった。で、それがね、ジャズやろうって、「でも俺、ジャズやったことないし。でもって、ピアノ課ですげえうまい奴いるじゃん」って言ったの。きんちゃんって言うんだけどね。「こんどうきんじ」って名前だったんだけど、「あいつアカン!」って言うわけ。「何で、だめなの」ってったら、「あいつコレや(お姉さまの仕草)」。で、しばらくおとなしかったんだけど、一週間位して寮生活に慣れ始めた頃に、お化粧した変なやつが入ってくるわけ。そう、きんちゃんですよ。えーーーーってかんじ!「何やってんだよ、お前」「え、私こういうのが好きなの」ってもう、言葉遣いからかわってきて、かつらももってんだよ。そう、もう根っからのコレなわけ。そいつがね、岐阜の各務原の出身なの。今、東京の銀座のクラブかなんかでピアノ弾いてるらしいけど。もう、その頃、ピアノは一番うまかったの、そいつ。ショパンなんか、手もでかいし、もうブウララララーーーーって何でも弾けるって感じ。だけど、コレなの。だから、「アカン!」っていうわけ。「あいつバンド入れたらアカン」っていうわけ。だから、大変だって。 「お前、エレクトーンだから、なんか弾けるだろう」って。「でも、しばらくピアノなんて弾いてないし」「まあ、硬いこと言わんと、いっしょに練習しよ」って感じ。で、その頃流行ってたのが、マッコイみたいなやつで、なんか一発モンなわけ。「何が楽しいんだ?こんなのやってて。」うん、もう全然つまんないって。なにやってんの、もういいよ、って辞めちゃったんだけどね。でも、まあね、中学校くらいのときに「Take Five」聴いてて、で、ジャズって、音がすごいおもしろいっていうか、いいなって思った記憶はあって。うん、まあそれでジャズにはまったわけではなくて、オーデイオにはまってったんだけど、その後。でもまあ、ジャズは、その中学校くらいに洗礼を受けてるんで。でも、全然違う種類のものじゃない?そういうものとは。一発モンで、ゴーンガーンガーンカラコロコロ・・みたいな、みんなガーって何弾いてるのかわけからない、むっちゃくちゃな感じじゃない? だから、「何が楽しいの?わけわかんないじゃん」「わけわかんないとこが楽しいじゃん!」って。なんだか知らないけど、発散できていいじゃん、みたいな。「あ、そう・・。俺、全然発散できないし、たまる一方なんだけど。」う~ん、まあ、しばらくつづけてるうちに、学校が東京に移転するってんで。その頃、エレクトーンに限界を感じて、ピアノ課に再入学しようと思って、一回田舎に帰ったんだね。で、あの、本当にジャズって何なんだろうって、やったら、ビル・エバンスがすごい好きになってきて、ジャズを自分なりに研究し始めたんだ。ジャズって何だろうって。で、いろんなレコードを買いあさってるうちに、ああビル・エバンスっていいなって思って、そのサウンド、それから、エレクトーンのときにもらっていた教材とかを総合的に自分で一年間勉強しなおして、で、ピアノ課に再入学したときに、恵比寿に学校が移っていたわけ。つまり、多分先生たちが、もう合歓に来るのが大変だったわけだよね。そう、先生たちがみんなそこに来て、その期間だけ学校のユースホステルみたいなところに自分の部屋を割り当てられて、授業の期間だけいて、帰る、と。うん、それがだんだんめんどくさくなってきたんじゃないかなって。だって、遠いでしょ。時間もかかるし、お金かかり始めたんじゃあない、ヤマハも。で、恵比寿の駅前のロータリーのすえやまビルってとこの、7階から上が、全部ヤマハの関係だったの。で、俺、すぐに入るのはあれだったんで、まず、東京に移って、ヤマハの附属教室にはいって、その基本的に、要するに、予備校みたいな感じ。で、ちょっと自信をつけてから、試験受けたんで、一発で入った。そう、試験にビル・エバンスの「Turn at the Star」あれを丸々コピーして、譜面の違ってるとこも発見して、それを自分でやって、それを、弾いたわけ。
村主:はじめから、ピアノで活動を始めたわけでなく、そこにいくまでに、結構、二転三転して、やっとたどり着いたっていう感じだったんですね。
そうだね、なんで、エレクトーンだったかって言うと、うちの親父がある日突然エレクトーン買ってきて、みたいな。なんか、置いてあるわけ、帰ったら。お前ちょっと習いに行って来いって、言われて。あの、親父がヤマハの音楽教室やってたしね、その関係で、エレクトーン買わされたんじゃあないかって。でも、自分は弾けないから。で、秋田に先生いないんで、弘前まで中学校の時、通ったモン。二時間半から三時間くらい。で、ソン時、やたて峠って言うね、すごい急所があるわけ。そうなるとね、まだ、電化してなかったんだ、その頃。あの、蒸気機関車とディーゼルと、後ろと前について、前は、ディーゼルが2台、後ろに蒸気機関車が押す、みたいな。もっとふるい時代は、蒸気機関車が3台。で、その急勾配を上っていったり。そうすると、もうさあ、普通は、ぼっぼっぼっくらいで上がって行けるのが、ぼーっぼーっくらいなの。で、「蒸気機関車峠を上る」っていうLPがあって、で、それに「やたて峠」のっかてんだよ。これ、うちのかみさんがねえ、捨ててあったLPをかみさんの友達が、「あんたの旦那って、鉄道好きだったよね。」っていって、捨てたったものを拾ってきてくれたんだよ。カビだらけだったものを俺がきれーいになおして、ね。
村主:納谷さんって、鉄道マニアなんですか。
うん、おれね、中学校のとき「HOゲージ」っていう、鉄道好きだったんだよ。
村主:だからよく旅の話とかでるんですね。
そうそう、それとあと、うちの親父が夏休みになるたびに、みんなを旅行によく連れてったっていうこともあるよね。まあ、あんまり関係ない話だけど・・・・。でね、(LPが)すごいステレオだから、向こうからぼーって、汽笛が聞こえるわけ。で、ふぉんふぉんふぉんって、山間に響いて、近づいてきて、目の前を通ってって、それで、ボボボッボボボッていうのが、目の前を通ってって、客車がカタンカタン、カタンカタンってのがすぎていって、最後にヴォヴォヴォヴォって過ぎていって、その後で、ポーっていうのが、聞こえていくっていう、ね、すごいロマンチックじゃない?ね。で、大音量で、ここで聴くと、もう感動的なんだよね。まあそれ、レコードだから、バチバチいうけどね。で、いろんな峠のそのシーンを録ってるわけ。でね、全部蒸気機関車なわけ。で、そんな有名な峠だったんだ、って。やたらね、カメラ撮ってる人とか、フィルム回してる人がいるわけ。なんなんだろなあ、って思って、手振ったりしてたわけ。中学校のときね。で、その前に、おおだてっていう町があって、そこの「とりめし」っていう駅弁がおいしいのね。で、それを必ず買って、汽車ん中で食べて、レッスンにいってた。ちょうど、食べてる時にそこの峠にさしかかるのね。だから、楽しい思い出でもありましたけど、まあ、中学校の頃から、越境通勤でないけど、越境通学みたいなことやってたんだなあ、って、今思いますね。
村主:学びに行くってことは、距離とかじゃなくって、遠くても当たり前なんですね。
うん。 で、ね、まあー、不思議なことがあってね。僕のまあ、初恋の相手だった人がいて、その子も全寮制の学校、とんじょって、「東京女子大」ね、そこに入学したの。その、同室のやつが、俺の習いにいってた佐々木よりこ先生って人なんだけど、その人は、ピアノもエレクトーンも教えてて、その同室のやつが、佐々木先生のところにピアノで習いにいってたって。で、後に、ジャズのファンとして、知り合うことになって話をしていったら、同じ先生で、なんとそいつと同室だったってことがわかった。で、そこで、縁ってどうなってるの?って感じ。でも、今でも弘前で、あの、お医者さんの奥様ですよ。うん、時間がずれてたから、会わなかったけど、個人レッスンだったからね。もし時間が合ってたら、会ってたかもしれない。ま、あの、そういうふうなことがあって、ピアノに転入して、それから、まじめに学校生活しようと思ったんだけど、ある日ふと、そういうことに気がついて、まあ、とにかく練習あるのみだな、と。だから、もう、学校に来て、すごい早く学校に来て、もう練習室押さえて、8時間分。で、それを毎日毎日続けて、で、それ以外は、必要な授業だけはでて、為になるなという、興味ない授業なんて、来ても半分本読んでるだけだから、あんなの授業じゃないから、自分が本読めばわかることだから、あんなの。 まあ、じゃあ、いいや、って。ああ、この先生は、だだ片手間で来てるなあって。で、片手間先生は、もう出ない事にしたの。一生懸命教えてくれる人には、出ることにした。もう、そういう授業には出ないって、そしたら、ま、あまりにもそういう人が多かったのかもしれない。そう、だから、結局は、自分でやるしかないなって思って、自分でいろいろ決めて、まあそうこうしてるうちに、プロの人たちに知り合うきっかけがあったり。
(渡辺)貞夫さんがその、リハーサルオーケストラっていうのを、やってたのね。ヤマハリハーサルオーケストラ。で、本田さんのピアノを後ろで見ることができたり。まあ、学生見学っていうの。で、講師の人たちもそこにいっぱい入ってて、で、そのオーケストラをみる。貞夫さんが指揮してて。リハーサルをやってる状況を見学できた。そういう授業もあった。でそこで、本田さんピアノ弾けないってことが、わかって。なんか、ピックアップがあって、そこで、なんかガガガガガガってやるとこがあって、間違うわけよ、そこで。そうすると、「本田―、何やってんだよ、お前!」「すーませーん!」って言って。「はい、もう一回いくよ」って、で、また駄目なわけ、やっぱり。「おーい、何回やったら、できるんだよ、お前!」って。「すーませーん。明日までには、絶対やってきます!」って。なんか、本田さんって、やくざみたいな人だなって。言い方とか、声とか。でも、まあ本田さんって、国立音大かなんかなんだよね、出身が。ある意味、クラッシックがバリバリ、ベートーベンが上手だったらしい。でもまあ、その当時、本田さんっていえばねえ、人気もすごいあったピアニストだったから。それでも弾けないことがあるんだ、って思って。そうか、俺が弾けないのは、当たり前だな、なんて思って。自分に、妙にいい風に転換するのは、もうその頃から始まってますよね。
村主:じゃあ、もし同じシチュエーションだったら、自分は、絶対弾いてやるぞ、とかいう気持ちは?
もう、全然なかった。これは、無理だわって、思った、後ろから見てて。なんか、いっぱい書いてあるんだ、いっぱい。あ、書き譜だ、とおもって。ま、もちろん、書き譜の部分もあるんだよ。
まあ、そんな、こんなですね。

DSC00619 (1)★.jpgDSC00619 (1)★.jpg5.納谷さんにとって、ピアノとは
村主:先ほどからのお話で、エレクトーンで合歓音楽院に入学してから、ピアノに転向されたわけですが、エレクトーンに限界を感じられたというのは?
うん、つまり、電子音じゃない?これって。うーん、で、その頃のエレクトーンって、こうレバーでいっぱいこうやってやるような。今みたいに、エレピの音とかサンプリングされた音が入ってるんじゃなくて、自分で作っていく、いかにも、逆に言えば、エレクトーンがエレクトーンらしい時代だった。でも、それで、俺はジミー・スミスがすごい好きで、ああいう感じで、ハモンドの音が出したかったんだけど、全然出ない。うん、だからなんかこう、なまぬるいっていうか、かったるいって言う感じがして、あーなんかつまんないなって、だんだんつまんなくなってきて、で、もう一回ピアノ触ってみたら、ジャズをちょっとやっていたってこともあったんですけど、(その時は)つまんなかったけどね、ピアノの音自体は好きになり始めていたんで、もう一回、その、ピアノでやってみようと思ったら、あ、なんか、ひょっとしたら、これやっぱり合ってるのかなって、自分にね。
村主:自分の出したい音、表現に?
そうそうそう。それ以外は、全く考えられなかったんだよね。クラリネットとかドラムもブラスバンドのときにやってたんだけど、やっぱり、ピアノが自分には合ってるのかなあ、と思ったんで、ピアノを選んだ。

H19kantaku_hiyori_1_l.jpgH19kantaku_hiyori_1_l.jpg6.納谷さんにとって、音楽とは
あの・・、この間実感したことがひとつあって、ツアーで仙台に行ったんですね。仙台に「ビレバン」っていう店があってね、そこは一番初めに、纐纈のアルバムが出たときに いろんなところに声かけて、こういうのがデビューしたんで、僕がプロデュースした手前、声かけてたんで、どうですかっていったら、日にちが合わなかったんです、最初は。「ビレバン」、ビレッジバンガードの略じゃないよ。本当にビレバンって名前なの。で、2回目は、震災の後で、でも、震災の前に一応ここでやりましょうって、5月に決めてあったの。で、大丈夫かなあって思ったけど、「うちは大丈夫ですよ。店はなんとも無いから、まあ、ビンとか落ちぐちゃぐちゃだけど、片付けりゃあ済むことなんで、他からみたらたいしたことは無い。」って。 で、2回目、じゃあ、5月ってツアーの中に入れてたの。そしたら、その直前に震度6という余震が仙台を襲ったの。で、ちょうどテレビの中継が入ってたんだけど、なんかその頃になると、警戒がでると、ぱっと画面が切り替わって、震源地のモニター画面がぱって、映るわけ。仙台だったわけ。で、その画面で、向こうの方で火花がぱってちって、ばばばばばって、だんだん電気がこっちのほうに消えてきたの。で、停電になっちゃったわけ。で、仙台は、震度6だったの。で、それがとどめで、その、結局町に人が、出れなくなって。いつ余震が来るかわかんない、怖いってことと、片づけをまたしなきゃいけない。だから、申し訳ないけど納谷さん今回はちょっと無理です。がんばろうと思ったけど、もうちょっと無理なんで、またこちらから連絡しますよって、・・2回目もだめだった。
で、この10月10日に、やっと3度目の正直で、そこで、演奏ができる・・。もうどこに傷跡があるんだろうって、見た限りではわからない。 仙台の町の中はね。 だって、仙台の人がいってたけど、全部電気止まっちゃったんで、津波で周りに大きな被害が起こってるって、だあれも知らなかったって。ところが、なとりとか仙台の郊外のほうは、ひどい事になってるでしょ。で、次の日になって、町の中心部の電気が復旧して、初めてわかったんだ。丸一日、周りがそんなひどい状況になってるなんて、まるでわかんなかった。 うん、仙台の町の中は、建物が崩壊したりとかはなかったんで、多少、ひびが入ったり、窓がわれたりとかあったかもしれないけど、あの、そんなひどい大災害になってるとは、全くわかんなかった。 だから、電気が復旧して、テレビつけたらびっくりしたって。言ってたよ。で、そん時何を思ったかって言うと。 アンコールで、俵山(ベース)の「The Peace Song」っていう曲を演奏したの。そしたら、なんか・・弾く前に一言、「夏に、三陸とか気仙沼のほうに、ボランティア演奏に行ってきて、あの、僕らが本当に非力だってことが、つくづく、身に染みて感じましたが、僕らができることは、音楽を奏でることしかなくて、それで、何とかみんなに元気になってもらいたいっていう気持ちで演奏してきました。で、最後にアンコールいただきましたので、そういう気持ちを込めて、この曲を演奏したいと思います。」って、言ってその「ピースソング」、「ザ ピースソング」を演奏したんだけど。 お客さんが立ち上がったのね。 えー、なんか気分害したかなあ、俺、言い方まずかったかなあ、って思ったら、違ってて、その人がみんなの、両サイドにいる人の手を握りながら、こう、立ち上がろうって言う・・感じ。そっから、人の輪がができて、揺れてるわけ、音楽に合わせて。で、ある人はもう泣きじゃくってるし、で、ある人は、こう、肩たたきながら、がんばろう、がんがろうなって、こう、こうやってる人もいるし・・・・。つまり、俺らの演奏が、そういう人たちにそういう現象を起こさせたんだなって・・・なんか、「音楽のちから」って、こういうことなのかな、って、あらためて・・思いましたね。だからやっぱり、平静を保ってるし、演奏を楽しんで「イエイ!」とかやってるんだけど、こらえきれないものがあるんだよね、やっぱり。 彼らのこころの中には。で、その中の、6人にひとりは、被災してるわけ。 で、帰り際にね、ママが、そこのママが、「本当、今日みたいな演奏をね、聞かせたかった人が何人も死んじゃってるのよ、津波で。ほんっとに、聞かせたかった。」って、もう泣いて泣いて・・。106002_l.jpg106002_l.jpgうん・・、あの・・、この人たち、普段は、来たときとかね、すごい元気そうだったし、まあ、大丈夫だなあって思ったけど、本当の、こころの奥では、そういう辛さとか、もうこらえにこらえてるんだなってことをね、本当に、痛切に、感じさせられたし、「音楽のちから」ってすごいんだなあ、って、思ったし・・・。ラトビアって国だったっけ、国境に向かってみんなが手をつないで国歌を歌いながら、ロシア軍、まあ旧ソビエトだよね、の軍隊の前にこう、歩み寄って行ったんだって。そしたら、撃てなくなっちゃったんだ。 もう、10万人か20万人くらいの人々の手のつながりの抗議。国歌を歌いながら。そういうことなんだよね。それの、ちっちゃい版が、起きたって・・。で、みんなに、なんか、少しでも元気になってもらったんだし、・・・・・・・なあ、って思って・・そういう、「音楽のちから」…。音楽って本来そういうものなんだ、だから、そのためにあるんだな、だから、そういうことを絶対忘れて演奏してはいけないっていう・・・。本来、音楽のあるべき姿・・・。どうだ、かっこいいだろう、とか、どうだ、売れっ子だよ、・・そういうことを思っている者は、音楽をやる資格がない。 そんなんじゃなくて、人のために自分の音楽がどう役立っているんだろうか、っていうことを、真摯に受け止めて音楽をやってる、これが、僕が、思うことなんですよ。
だからやっぱり、そういうことをずっとやり続けて、あの、自分で、きてるつもりだし、あの、特に若い頃に、調子こいて、鼻高々になってて、あの、何本もそういうの折られたし、あの、いろんな意味でね、いろんなところで。 だからなおさら、ああ、やってきてよかったな、って、そう思うわけです、そん時。・・・・・・う~ん、俺も泣けて泣けてしょうがなかった、そのとき。ほんとに、うん・・・。被災地で、ほんとの被災地でやったときは、そんなこと思いませんでしたけど、あの・・・・、そこに、音楽が好きで、ジャズが聴きたくて、ほんと・・あの、「ビレバン」の店をもう一回再開してから、初めて位のライブだったらしく、みんな飢えてるしね、生の音に。で、やっぱり、聴いてなんかその、感極まったんじゃないかなって・・・思う。だから、やっぱり、音楽というものは、そうあるものなんだなって・・。うん、だから、やっぱり昔、ベートーベンとか、ああいう時代があんまり良くなかったヨーロッパの時代に、すごい曲が生まれてるってことは、そういう、人のこころの代弁ではないかなって、気がするね。・・・やっぱり、今聴いてもすばらしいなって思う曲っていうのは、やっぱり、そういう時代背景が絶対あるって、うん。 だから今、どうでもいい、チャラっとした曲が多いのは、そういう時代背景なんですよ。
村主:いつもいつもこころの悲しみの声をきいていたら、生きていけないから、こう、閉じて、というか、抑えているけれど。やっぱりどこかで、それを、ずっとそのまま持っていたら重すぎるから、離したいんですよね。
H18tyoubou_020_l.jpgH18tyoubou_020_l.jpgそうそうそう、それをなんとか、解放したっていうか、元気付けたっていうか、わからないけど、そういう状況が起きたんですよ。ま、「人の輪」って僕はブログにかいたけどね。まあ、音楽は、そうあるべきものではないのかな、って思います。だから、クラッシックとか、ジャズとか、なんかそういうジャンル分けは、レーベルが勝手に考えればいいことであって。ミュージシャンなんで、そんなこと考えてないしね。うん、だから、やっぱり自分のそういう信念、想いをどういう形で音楽に表わしていけるか、まあ、そういう修行の毎日毎日でもあるんだろうしね。まあ、そうは言っても、お酒が飲みたくなるときもあるだろうし、深酒したくなる時もあるだろうし、・・・まあ最近は、随分安定してきたけどね、自分も。まあ、歳をとってきたのか。でも、やっぱり。そういう現場に遭うと、やってきてよかったなあって・・・思ったね。・・・ま、そんな感じですかね。

DSC00621★.jpgDSC00621★.jpg7.「サムライ・ビバップ」の想い
サムライ・ビバップのという名前っていうか、「サムライ」っていうのは、日本の人が、古来から本来持ち合わせてる、物を大事にする、とか、人を思いやる、とか、日本人ならではの美しいこころ、とか、そういう意味で、まあ、代名詞的に「サムライ」って付けたの。「サムライ」っていうと勇猛果敢ってイメージあるけど、本当は、そうではなくて、非常にきちっとした生活、律儀な、こう倫理観に基づいた・・・。うん、まあでも、絶対君主っていうのはあるよね。でも、非常にそういう生活を営んでたと思うし、昔の日本人って、そういう人たちがみんなそんなだったと思うの。まあ、貧しかったってこともあるけど。で、「ビバップ」っていうのは、逆に、ジャズの魂、だよね。 僕らが今やってるジャズの根源、一番のルーツになってんのが、ビバップ、なんで。その両方をなんとか合体して、自分のジャズとして、何とか世の中に発表できないかなっていう想いから、「サムライ・ビバップ」という名前を付けて、そうして、出した。で、なんでその、「サムライ」と付けたかというと、日本のジャズって、みんな借り物、なんですね。やってるのって、みんなスタンダードだったり、そのなんか、「なになに風」じゃない?で、多分僕がやってる、「白うさぎ」とか、ああいったタイプのジャズって、誰もやってないし、日本ならではの、でもそれをジャズに引っ付けると、妙に引っ付けると滑稽になったりする。そのバランスが難しいと思うんだけど、まあ、自分なりに、そのバランスを取りながら、前編オリジナルで、かつそういう、コンセプトの元に、日本人の日本から発する、日本のジャズ、というものをやりたかった。だから、ストーリーもこの際、自分で作っちゃう、時代劇を自分なりに書いたわけ。それで、そこのシーンに合わせた、曲がいっぱい、なんとなくイメージがあったので、曲ができて。だから、全編オリジナル、書き下ろし小説に、その曲をあてはめ、自分たちで演奏する。つまり、ジャズ界のシンガーソングライター。で、こういうことをやったのは、日本のジャズ界で僕が最初だと思います。 しかも、日本から、日本発。日本の民謡を、なんかやってるとか、そういうのはあるけど、借り物じゃない?自分のものでは、ない。 だから、自分で作って、自分のまったくオリジナルってことで。ただ、形態としては、ビバップだったり、ジャズだったり、しかもまったく聴いたことのないものだったり、フリージャズの要因も入ってたり、 クラッシックの要因も入ってたりする。で、いろんなものが、自分の今までの集大成というようなものが、まあ、俵山昌之っていう名手と、大坂昌彦っていう名手、二人を得て、できた。そして、今でもこのトリオは活動してるし、今、第2作目をやりたいねって、いってるけど、資金調達がなかなか難しいし・・、まあ、CDがなかなか出せない時代なんですね。なので、曲はいっぱいたまってるんだけど、ね。ま、とにかく、そういう想いで、世に出した、日本初、世界初くらいの物ではないのかな、と。世界をみたら、自分でストーリーを書いて、曲を付けて、オリジナルで、演奏もするって人が、いるかもしれない。でも、日本では、多分いないと思う。しかも、日本を代表する、アニメを中にね、漫画を中にはさんだ。あの、日本画ではなくてね。まあ、ちょっとキャッチイな感じで、いこうかなって思って。たまたま友人でね、そういう書いてくれる人がいたんで。
村主:私が納谷さんに習い始めた一番最初のレッスンの時に、ジャズをやろうとしても「我々は、所詮、日本人です。」って言われたことが、とても印象的でした。
そう、だから、「日本人が日本人として日本人のジャズをやんなきゃいけない。」って、俺は、ずーっと思ってるわけ。うん、でもそういう風に思っている人は、ほんとに、いないよね。みんな、だから、スタンダードとか、こう、売りやすいものに流れちゃってるから。 そういうのが、すごい、非常に残念だね。 だから、俺もね、他の人の仕事でスタンダードをやらなきゃいけないこともあるんだけど、でも、自分の音楽とか自分の事に関しては、そういうことは一切やらないって、決めた。うん、だから、それをわかってもらえる人は、すごく少ないんだけど・・。でも、定着したファンは、いるので、お茶の水のナルでやるときは、結構満席に近い状態には、なる。で、逆にそれがプレッシャーとなり、次の新しい作品を、作っていかなきゃなって。いいプレッシャーでは、あると思う。自分が言い出したことだしね。
村主:じゃあ、もうご自分の中で、ああやって、こうやってと、2作目のいろんなことがある程度出てきているんですね。
うん、もう、いろんなアイデイアは、出てる。ただ、まだうまく、つながんない。曲はいっぱいできてますよ。もう、アルバム一枚分、相当するくらいは、できてる。
村主:また、小説も続けて、書いていくんですよね?
うん、一回やり始めたことなんで、やっぱり、もう一回は、絶対やらなきゃ。だから、それは、是が非でも言ってる。
・・・ですから、みなさん、「サムライ・ビバップ」ぜひとも、よろしくお願いします。(笑)

Episode
生徒としての村主真裕美について
村主さん、随分長いんだよね。うちは、来ていて一度いろんな事情で辞めたりしても、戻って来てから長い人と、ずっと、橋本さんみたいに長い人と、いるんだよね。 それで、出たり入ったりを繰り返す人たちもいるんだけど、結局そういう人たちは、縁がないっていうか、長続きしないのね。
だから、思うんだけどね、音楽を通してなんか目に見えないパワーっていうか、縁の集合体っていうか。
多分、ここで長くやってる人って、どっかで縁があった人たちで、たまたま僕を介して集まってる気がするね。・・なんとなく、長くやってる人ってね。いっぱいいるじゃない。まあ、これがうちの教室の特徴でもありますね。そんな人が多い教室の中での、橋本さんのカラーリングっていうのがあって、やっぱり、村主さんのカラーリングって言うのは、バイタリティ、あと、押しの強さ。うーん、なんていうんだろう、ほら、ご先祖が、遣唐使という、「村主(すぐる)」さん、日本でも非常に古い歴史を持った苗字じゃない?世が世なら、だよね。今のままで、遣唐使とか遣隋使やってたら、すごいいいことになってるよね。
村主:きっと今とは違う生活になってる・・とか。
うん、菅原道真とかね、ははは。 まあでも、あの当時命がけで、そんな国に行くなんて、よほどの物好きか、馬鹿か、バイタリティの持ち主じゃない?その頃の日本には、羅針盤がなかったから、沿岸操行だったんで、岸が見えなくなったら大変なことだったんだよ。
だから、そういうような、バイタリティのある先祖を持っているんで、一回事が決まると、レッスンなり、曲なり、いろんなものに取り組む方ではないかなって、思う。
村主:ピアノっていろんな面が出るので、長くそれをみてきた納谷さんならではの、ことですね。
そう、だから、一個決まると、そのバイタリティを持ってやってくる人だと思う。でも、決めかねてる時っていうのは、なかなか決まらないのでは、ないかな、と。 でも、何かしら見つけて来ては、または、この教室以外でいろいろ繋がってきた人たちとの間柄を大事にするよね。 だから、そういういい友達はやっぱり、類は友を呼ぶ、で、似たもの同士が友達になったり、で、お互いにいい風な状況に作り上げていける、というものを、持ってる人だよね。 だから、そういう縁故関係でいろいろつながってる人だよね。
村主:そうですね、周りの人たちが言ってくださるいろんなこと、音楽に限らず、それは、きっと自分に必要なことだなって思って、とりあえず受け止めて、やってますね。
そう、トライアル精神ってものすごくあるよね。やっぱ、それは、その遣唐使の精神がそのまんまだよね。うん、やっぱり、そういうルーツをもってらっしゃるんだよ。
で、ジャズって逆に、あのー、ある程度年数重ねないと、一人前ってのはヘンですけど、人前で演奏できるレベルに達しない、やっぱりとても難しい、まあ、なんてか即興音楽だからね。なんでも、エイヤアってやれば即興って訳じゃなくて、すごい勉強して、いろいろ経験を積み重ねて、で、人から励まされたり、人前で恥じかいたり、こういろんなことをやって、初めて、その人なりの即興っていうもの、その人なりのジャズの表現っていうものが出来る、ものだと思う。
で、今やっと橋本さんは、最近、まあ、お誘いもあったかもしれませんが、そういう芽生えがちょっとあって、それで今こう、双葉がぽって、出始めてるところだと思う。だから、それまで長いことやって来てるけど、いろいろ忙しくて思うようには外に向かえなかったけど、やっといい風な方向に、あの、時間的な部分、それから、音楽的にこう、ゆっくり考えられることが出来てきているんじゃないかなって。 他から受けた経験とか、そういう友達関係とか、そういうようなものが今の自分に反映されてる。そして、いろんなことがわかる、わかりつつある。あー、こういうことだったか、こうやればいいんだ、とか。と、いうような事がわかりつつある状況ではないかなと。 だから、これから花開いてく。
これからは、自分だけの音楽じゃなくって、「音楽の力」っていうのを。 うまい下手じゃなくって、伝える気持ちって言うか、音楽で、「みんながんばろう」、「一人じゃないんだ」っていうものを伝えることにまで発展していけると、うまい下手に関係なく、「あー、この人はアーティストだな。」「あー、この人はミュージシャン」、つまり音楽を中心に世の中を見て、考えてる人だなって。音楽が天職なんだなって。でもこれは、自分が決めることじゃない。周りが、決めること。周りの人が、その人の天職だって決めること。 だから、自分の音楽も自分が決めるんじゃなくて、周りが「村主さんって、なんか、やさしい中にもエネルギッシュなものを感じる演奏をしますよね。」って。それは、自分が言うことではないし、自分が決めることじゃない。周りが、決めること。 それで、周りがそう言ってたら、ただ自分はにこにこして聞いていればいい。「そうなんですかぁ」って。「いえ違いますよ」とか、言わないことね。言う必要もないし。だから、自分は自分が思ったことが表現出来るように修練、そして、日々の生活の継続が、やっぱりいい音楽を造っていくんじゃないのかなって思う。突然生まれるわけじゃないよ、うん。 だから、僕がこういうようなことを喋ってて、それを、こういう風に、はい、とよく聴けること、それはやっぱり自分の好奇心とか、向上心なんかを強くもってる人だということが、ここで証明されたわけですよ。
音楽っていうのは、神々しくて、清らかで、力強い、みんなをひとつに出来る力をもっているもの。僕は、仙台でのことで、身近にそのことを感じられたから。
音楽に携わる人は、そのことを根底にもっている人じゃないと、いけないと思うんだよね。
だから、今後、そういったことを感じながら、自分自身で志しながら、健康に気をつけて、継続してやっていってください。


村主真裕美
インタビューを終えて
私がジャズを徹底的に学びたいと思ったとき、名古屋で最高のジャズピアニストに、師事しようと決めました。当時から、全国的にライブハウス等で活躍されていた納谷さんのお名前は、知っていましたので、友人の紹介を得て、迷うことなく、入門のお願いをするため、ライブに直接伺いました。今から、17年前のことです。今回、お話を聞かせていただく中で、ミュージシャンとして、また、人としての納谷さんの姿に、触れることができ、あらためて、尊敬の念を深めさせていただきました。「人のために、自分の音楽がどう役立っているんだろうか」ということを真摯に受け止めて、音楽を奏でる。仙台でのお話は、納谷さんの貫き通してきたその信念があったからこそ、そこに「音楽のちから」が生まれ、ライブにみえた人たちの悲しみを開放させ、元気付けることができたのだと、思いました。私自身も、音楽に支えられ、音楽の存在で、いろんな人との出会いをいただいてきました。その感謝の想いをこれからお返ししていくのは、やはり、誰かの元気のお役に立てるようなピアノを弾いていくことだと、こころ新たにさせていただきました。
納谷先生へメッセージ
この度は、このスペシャル企画にあたり、様々なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。門下生としては、古株になった私ですが、初めて伺うこともたくさんあり、驚きながらも、納得することばかりでした。習い始めの頃、空間を怖がって、弾き過ぎる私に、「ピアノの音の減衰する美しさ」を説いてくださった事が、とても印象的でした。そして、音楽に対する姿勢を言葉でなく、常に姿で教えてくださることに感謝しています。納谷さんのファンの一人としても、応援させていただきます。
これからも、よろしくお願いいたします。

                                          橋本真裕美

管理人
インタビュー記事については、殆んどカットすることなく、テープを起こしたそのままのお話口調にて長文掲載させていただきました。それは、その時代背景や、納谷嘉彦氏の温かな人柄、並びに隅々まで心温まる内容のため、様々な方にきちんと全てお伝えすべき大事なことと感じ、その想いから掲載させていただきましたことご了承ください。

納谷嘉彦Profile

ピアニスト/作・編曲家
能代高校卒業後、ネム音楽院(現ヤマハ音楽院)入学。
78年 第一回日本ジャズグランプリに於いて最優秀ソロイスト賞を受賞。納谷嘉彦(pf)3で名古屋を中心に活動。
82年 BEBOP82」(TBMレコード)でメジャーデビュー。バイオリニストの寺井尚子と「プレザン・プレザン」を名古屋で結成。自己の演奏活動の傍ら、名古屋の後進の育成、指導に力を注ぐ。
92年 五十嵐一生クインテットのレギュラーピアニストとして参加。5作品のアルバムに参加
95年 大野俊三バンドでJAPANツア一。
99年 日野皓正5で全国ツアー。
01年 小林桂のアルバム「JUSTYOU」にアレンジを提供
04年 小林桂のアルバム「NatureBoy」に参加。
06年 愛知県豊田市美術館にて展示作品とピアノとによる即興演奏会を開催。
TOSHIBA2006JazzStyle全国主要都市ツアーで「大隅寿男3」}に参加。宇崎竜童と共演
07年 大隅寿男のアルバム「NewDeal」(M&I/PONYCANYON)にアレンジを提供、ピアニストとしても参加。井上陽介のアルバム「STRAIGHTAHEAD」(M&I/PONYCANYON)に参加。
08年 ポップス色の強いオリジナル曲を中心とした自己のリーダーバンド「Azoo&奥山みなこ」のファーストアルバム「Seme~種」をAzooレーベルよりリリース。
09年 日本JAZZ界初!書き下ろし時代劇小説に全編オリジナル曲で挑んだ異色作「侍Bebop」をM&I/PONYCANYONより、4/15にリリース!春ノ巻、秋ノ巻と「斬り捨て御免」行脚を行う。日本の文化に根ざした「サムライJAZZ」という新しいジャンルを作る。
10年 文化庁の「学校音楽鑑賞コンサート」で古野光昭(リーダー)寺井尚子、川嶋哲郎、小山太郎らと共に、子供達にJAZZを聞いてもらう文化活動に参加。養成中の新人、纐纈歩美(As)のファースト・アルバム「STRUTTIN」(M&I/PONYCANYON)にプロデューサー兼ピアニストとして参加。
現在、自己のグループ「納谷嘉彦SAMURAIビバップ3」「f/納谷嘉彦(pf)4」、そして「Azoo」井上陽介「Z's」などで活躍中。
00年から三年間、NHK名古屋放送局「FMトワイライト」金曜日担当のパーソナリティーとして、おしゃべりでも活躍。
05年4月より名古屋音楽大学音楽科特別講師として、教育現場で後進の指導にも力を注いでいる。

納谷嘉彦リーダーアルバム
「サムライ・ビバップ」

納谷嘉彦サムライ・ビバップ・トリオ
「斬り捨て御免!時代劇ジャズ!」
創作時代劇のストーリーにのせて、三人のジャズ侍が繰り広げるスリリングなインタープレイ!鈴木氷鴨が描くイラストと、納谷嘉彦書き下ろしの物語を収めたブックレットを片手にいざ!
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SAMURAI ジャケット&裏ジャケット.jpgSAMURAI ジャケット&裏ジャケット.jpg
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発売元 (株)ポニーキャニオン PONY CANYON INC.Japan
レーベル M&I Company,LTD.(PC)(M)
収録時間58分
定価 \3,000円

納谷嘉彦サムライ・ビバップ・トリオ
納谷嘉彦 ピアノ
俵山昌之 ベース
大坂昌彦 ドラムス

曲目リスト
1.序章(プロローグ)
2.しろうさぎ
3.安息の日々
4.風雲急を告げる
5.十六夜
6.月の詩
7.亀裂(FISSURE)
8.密命(SAMURAI BLUES)
9.暁闇
10.大地の舞(ダンス・ダンス・ダンス)
11.宵の香
12.真夜中の果たし合い~序・破・急
13.希望の鐘の音

★村主真裕美より「サムライ・ビバップ」のご紹介
「そう遠くない昔のことでございます」というナレーションで始まるこのアルバム。
日本初、歴史小説付き、ジャズアルバム。執筆、作曲、演奏すべて、納谷氏の手によるオリジナル作品です。
製作過程の中で、私がレッスンに伺うたびに、「こんなイラストができてきたんだ。」、
「ナレーションが、仕上がったんだ。」と、パソコンを開いては、見せていただきました。
生徒の特権ですね。一つのものを作り上げていく醍醐味と細やかな集中力の必要性を、
後ろ姿から学ばせていただいた思いです。
「サムライ」の中に、日本人が古来から持ち合わせている、人や物を大切にする美しい
こころを込めて。そしてそれを、ジャズの根源、一番のルーツである「ビバップ」と合体させ、自分のジャズとして作り上げた作品。まさに、納谷さんの「サムライ魂」そのものです。日本人の日本から発する日本のジャズです。
私は子供のころ、ソノシート(プラスチックのSPレコード)付き絵本を一人で一日中飽きずに楽しんでいました。
今回、納谷さんのこの作品に出会った時、ストーリーと音楽が溶け合ったあの頃の
感覚が懐かしさと共によみがえってきました。
CDを聴きながら、小説を読んでいくと、さらにお話の世界に惹きこまれていきます。
しかも、クールなイラストも付いています。
もちろん、単独にその一つひとつも、楽しむことができます。
全編を通して流れる、日本人としてのこころが、ジャズの響きと共に時には激しく、時には静かに伝わってきます。また、民謡のかおりや、クラッシックのエッセンスを感じたりする時に、納谷さんご自身の音楽とのかかわりを垣間見させていただくようでもあります。
音楽に対して、常に真摯に向きあう納谷さんの「納谷ワールド」が、ここにあります。橋本真裕美

「サムライ・ビバップ」各全国CDショップにて好評発売中!
アマゾンにて試聴及びご購入ができます。

アマゾンのカスタマーレビューにて星五つ★の評価!
カスタマーレビューより
●学生時代からの自分のアイドルであった納谷氏が自身のトリオを率いてのオリジナルCDは正に待ちに待った作品。
CDをオーディオに入れれば、そこには生き生きとピアノの上を駆け巡る納谷ワールド。
ライブでしか聴けなかった『しろうさぎ』『風雲急を告げる』もクレジットされており、CD化を希望していた自分には二重の悦びである。
日本人にしか出来ない『和のジャズ』
単にテーマと同じコード進行でアドリブを繰り返すだけではないストーリー性を持った本CDを聞けば、納谷氏の腕とフィーリングを余す事なく堪能できるはずです。
●待ちに待った満を持したトリオの、日ごろのライブステージでの、ダイナミックさ、強さ、やさしさ、鋭敏、繊細さ、楽しさ――まるごと、すみずみまでみっしりと詰まっている、と思える。 出色の。…そして、生身のトリオはと言えば、今、この瞬間にも、たゆまぬ進化を遂げている。 ファンより

その他の主なアルバム参加作品紹介
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Jazz Bassist井上陽介のストレートなジャズを小細工なしに演奏した入魂の一枚!
井上陽介の最新作は、多田誠司(as)、納谷嘉彦(p)と共にドラムレス・トリオとして昨年末に結成したトリオ「Z's(ズィーズ)」に、ゲストとして大坂昌彦(ds)が加わり、井上の思いのまま、正直に、まっすぐにジャズに挑んだ男気と気合がプンプン漂った力作!
井上のオリジナル3曲に、C・ミンガスの「ベター・ゲット・ヒット・イン・ユア・ソウル」やN・アダレイの「ワーク・ソング」など7曲のスタンダードを真っ向からプレイすることで、ジャズが持つ本来の楽しさや深さ、カッコ良さを見事に浮き彫りにし、様々な音楽が交差し融合するようなこの時代だからこそ味わい深い作品といえる。
最近では安富祖貴子をはじめ、プロデューサーとしても多忙を極める井上だが、己のジャズ・ベースマン魂を本作にぶつけるが如く、160km級の直球勝負で挑んだこの力作は聴く価値あり!(The Walker's 加瀬正之)

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大隅寿男のリーダーアルバム。管を加えてのアルバム。演奏の構成はピアノトリオあり、アルト一本あり、アルト二本ありと三種の味が楽しめる。 基本となるピアノトリオは納谷嘉彦。切れ味の良いタッチでリリカル且つファンキーに小粋にスイングさせている。 粒の揃った音で気持ちの良いスイング感で後味がいいアルバム。

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日本ジャズ界若手実力派の筆頭、五十嵐の2作目のフル・アルバム。年齢(65年生まれ)のわりに落ち着き過ぎた雰囲気に、いよいよ若さの勢いが加味され、いいバランスになった。変な話だが、さほどに彼の技巧が凄いということ。コンボの結束もタイトで最高。

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2010 年7月にデビューするや、若さと美貌だけでなく、そのやわらかい音色や確かなテクニックとエモーションでジャズ界の話題を集めた纐纈歩美。
ジャズジャパン誌 創刊号のニュースター賞第1号に選出された彼女のセカンドアルバム。
レコ発全国ツアー(ジャズフェス含む40ヶ所超、各地で満員御礼の盛況)を経てミュージシャンとして一段と成長を遂げた彼女の姿を早くもセカンドアルバムという形で提示する。
本作は、ハードバップからクールジャズを中心としたジャズのレパートリーを中心に、作曲の才能も垣間見れるオリジナル曲や、JPOPからは一青窈「ハナミズキ」のカバーなど
纐纈の魅力がつまった楽曲を収録している。

■納谷嘉彦プロデュース
■パーソネル
纐纈歩美 (Alto Sax)
納谷嘉彦 (Piano)
俵山昌之 (Bass)
マーク・テイラー (Drums)
■纐纈歩美(Ayumi Koketsu)Alto Sax
生年月日:1988年10月5日 血液型:B型
岐阜県土岐市出身。地元ビッグバンドのトロンボーン奏者である父の影響で、幼少の頃からジャズ、ラテン、フュージョンに親しむ。
3歳よりクラシック・ピアノを習い、中学の吹奏楽でアルト・サックスに転向。高校から本格的にジャズを始め、椿田薫氏に師事。
このころからチャーリー・パーカーに傾倒するようになる。高校卒業後、甲陽音楽学院名古屋校コンテンポラリー・ミュージック専攻ジャズ・サックス科入学。
Randall Conners氏、岩持芳宏氏に師事。演奏と理論を学ぶ。在学中より、岐阜、名古屋を中心にライヴ活動を始める。
卒業して現在、リーダーバンド(as+p+bトリオ/as+gまたはp+b+dsカルテット)の他、納谷嘉彦(pf)カルテット「f」を始め、様々なセッションに参加。
2010年7月21日、ポニーキャニオン/M&IレーベルからCDデビュー。
●公式ホームページ http://a-koketsu.6.ql.bz/
●ブログ http://ameblo.jp/as-ayumi/

収録曲
1. Daybreak (Ayumi Koketsu)
2. Sub-Conscious-Lee (Lee Konitz)
3. Embarcadero (Paul Desmond)
4. How Deep Is The Ocean (Irving Berlin)
5. ハナミズキ (一青 窈, マシコ タツロウ)
6. Evidence (Thelonious Monk)
7. After Dark (Yoshihiko Naya)
8. I Can't Get Started (Vernon Duke, Ira Gershwin)
9. Out Of Nowhere (John Green, Edward Heyman)

2枚目の纐纈歩美!1stアルバム『ストラッティン』で鮮烈なデビューを飾ったのは2010年の夏。それから僅か9ヶ月後に届けられた2枚目の『デイブレイク』。ライナー・ノートで「本当の意味でのスタートのように感じているんです」と彼女自身が語っているように、昨年のデビュー以降、全国ツアーをはじめ、怒涛のようにライヴ~イベントや取材などをこなしてきたと思うが、その中で彼女自身の演奏やジャズ・音楽に対する意識に良い変化があったに違いない。 1988年生まれということで、今年23歳を迎える彼女だが、現在プロスポーツの世界でも20歳前後のアスリートの活躍が目覚しい中、音楽の世界でも一気に成長を遂げる年齢なのだろう。彼女が書き下ろしたタイトル曲「デイブレイク」がオープニングを飾っているが、この「夜明け」という意味のタイトルも素敵だ。一青窈の「ハナミズキ」など全11曲、一段と成長を遂げた彼女の姿が刻まれている。 (加瀬正之)

楽譜、スコア等
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ハイクラスジャズピアノ スタンダード名曲集[改訂版] 【CD付】 上級者対応 編曲:納谷嘉彦 納谷 嘉彦 (楽譜 - 2007/4/18)
プロのジャズピアニストとして第一線で活躍する傍ら、後進の育成にも力を注ぐ、納谷嘉彦氏の監修による、スタンダード曲を集めたジャズピアノ教本。
【CD付】とあるが、付属のCDそれ自体が、納谷氏の腕前を惜しげもなく披露した、スタンダード名演アルバムとして、独立して楽しめる。

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High Class Jazz Piano スタンダード名曲集 【CD付】 上級者対応 納谷 嘉彦 (楽譜 - 2005/11/11)

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★レディオ・アイの番組「IR・JAZZ」にて

納谷嘉彦公式ホームページ
http://www.naya-music.com/